正しいものを正しくつくるとは何か?

2017.08.28

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市谷 聡啓

正しいものを正しくつくるとは何か?

 ギルドワークスが掲げている「正しいものを正しくつくる」とは一体何か。関係者から、直接的に問いかけをもらうことはあまりありません。絶対的に定義できるほど分かりやすい「正しさ」を扱っているわけではない、というコンテキストが共有できている場合が多いからではないかと思います。

 この機能を実装すれば売上が必ず上がる、この施策を行えば会員が必ず増える、と演繹的に言えることが例えばサービスづくりにおいてどのくらいあるでしょうか。場合場合において、検証済の仮説というのはあり、普遍性が高まればパターンとして認識できるでしょうけども、達成したいことに対して、パターンが圧倒的に不足していて、まず検証が先立つというのが実際です。

 では、「正しいものを正しくつくるとは何か」という問いに意味はないのでしょうか。私はそう考えていません。むしろ、この問いここそが「正しいものを正しくつくる」に迫るための原動力と捉えています。

「正しいものを正しくつくる」のゴールデンサークル

 サイモン・シネックのゴールデンサークルに従って「正しいものを正しくつくる」をWhyに置くとすると、Whatは具体的なアクションをあげるわけですから、私たちだと「仮説検証型アジャイル開発」が一つ挙げられます。

 ただし、既に文脈を一つおいていることになります。私たちがいう「仮説検証型アジャイル開発」は、ゼロからサービスを立ち上げる際の文脈(0→1)で有効として捉えている手段です。既に存在するサービスをグロースさせる際(1→100)にも考え方は有効ですが、文脈に合うプラクティスを編成し直す必要があります。

 つまり、「正しいものを正しくつくる」の具体的な行為というのは、文脈によって異なると言えます。では、やはり「正しいものを正しくつくる」というのは得体を捉えることができないのか?というと、私は2つの原則によって支えられる概念だと説明します。この原則が、ゴールデンサークルで言えばHowにあたります。

第一原則:自分自身の正しさの基準を持つ

 一つは、自分自身の正しさの基準を持つこと。客観的、絶対的な正しさは存在しない。とすると、その正しさが宿る先は自分自身の中しかありません。自分が置かれている文脈において、何が正しいのか、自分で決められること。簡単なことではありませんね。

 当然ですが、未熟な基準では結果が伴いません。真摯に正しさに向き合うほど、ストイックになるはずです。知識を集め得て、技を鍛え続けることが求められます。

 「正しいかどうかが自分の基準に依る」ということは、違和感があるとか、正しくないという判断が論理を越えて、感性で行えるようになるはずです。

第二原則:自分の正しさを見極め続ける

 もう一つは、自分の正しさを見極め続けること。批判にさらされることなく、守り抜かれる基準は、危険です。自己満足と異なり、有用な信念とは、自分だけではなく、他者や世の中の問題解決に繋がっているはずです。

 そもそも、文脈に依存するということは、状況の変化を受けるということです。昨日までの正しさが、今日は、いつかは、通用しなくなるかもしれない。それに気づくためには、自分自身のシステムを作っておく必要があります。自分の気分次第で、時間があったら見直す、というのでは、基準が鍛えられることはなく、誤ったことをしていることにすら気づけないというリスクを高めます。

 「自分自身のシステム」というのは、すなわち、「正しいものを正しくつくれているか?」という問いに定期的に応えることです。

「ふりかえり」と「むきなおり」

 システムには、「ふりかえり」と「むきなおり」の2つの機能があります。ふりかえりは、よく知られているアジャイルなレトロスペクティヴです。過去を顧みて、現在を正すのをふりかえりとすると、もう一つのむきなおりは、進むべき先を捉えて、現在を正すものです。

 事業レベルで行なうむきなおりは、こちら(「事業をふりかえって、行きたい方向へむきなおる」)で説明をしました。事業だけではなく、プロダクトのレベルでも、チームのレベルでも、むきなおりを行なうと良いでしょう。

 このふりかえりと、むきなおりを定期的に行なうこと。その頻度の設定は、どれだけVUCAな環境にいるかで変わるでしょう。私は、事業のむきなおりを半年〜1年に1回行なうようにしています。個人のむきなおりは、実に毎週行っています。

正しさの審美眼

 「自分の正しさを見極め続ける」とは、正しさの審美眼を持つということなのだと思います。何が正しくて、何が正しくないのか、その目を鍛えるためには、逆に自分の外を見続ける必要があります。

 世の中にはどんな問題があるのか、この解決手段は何の問題に適用できるのか。実際に試してみたり、実践から学ぶ必要もあるでしょう。ただし、自分自身で経験できることには時間的に限りがあります。自分の外にある実践や経験を見聞きすることも、目利きを養うための良い習慣と考えます。

 さて、以上の説明も、私が考えたものでしかありません。正しいものを正しくつくるとは何なのか。その問いには、自身の思考と行動を見つめ直すこと、また、それに答えるために知識を得に行くこと、つまり自分自身の目を鍛える機会に繋げられる、価値があります。